先日、独りでブラっと飲んだ帰り、駅のトイレで横に立っていた警備員のおじちゃん。
腰に下げた誘導棒がライトセイバーのようにピカピカ光っていた。
その向こうにいる初老のおじさんは3輪くらいのささやかな花束を持っていた。
世の中には各々、それぞれの人生があってクラっとするほどの事象で溢れかえっている。
使い古されたフレーズだけど、使い古されるくらい延々と続いていることなのだね。
自分の人生はあらゆることに左右されるし、様々な影響を受けやすい。
でも、快楽も苦痛も幸せも寂しさも自分だけのモノで、100%の共有はできない。
そこんとこのチグハグな具合が、溢れるほどの”事象”を生み出しているのかと思う。
だって他人を見て「こんな気持かな」って思っても、当たりだったりハズレだったりが常だしさ。
”生きる”って現象に、それ自体には何の意味も無いのだろうけど、笑ったり泣いたり忙しいやね。
だから、でも、意味はなくてもそれだけで価値はあると思います。
そして、他人でも何でも犠牲にして突き進む人と、他人だろうがなんだろうがのために自分を犠牲にしている人も、等しく在る。
自分はよー。バカだし楽観的だし、井戸みたいに、汲み出されることもありゃ雨や地下水がたまることもあるよ。
でも、それを眺めている自分もいるし、棺桶まで自己満足を抱えて行ってもいいんじゃないか。
でもね、ダラダラするのもいいけど、やることはやろうね。
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とまぁ、ふと思ったことを、未来の自分を甘やかすために書いてみました。
酔うとこんなことばっかり考えてダメですね。
インターネットができて、自分を晒し出すことの、ある種”気軽さ”ってのも、ネットor現実の自分の在り方が
ずれてくると危うい。それはしないようにと心がけてます。
ここはココ、こっちはコッチってのは悪くないけど、結局能動的な行為であって、多面性は生物の器官の一つだと思うんだけど、それを認めれるほど自分に対して器用ではないので。
ズルズル書いてしまいました。読んでくださった誰か。お目汚しをすいません。
字だけだと恥ずかしいんで写真を、、、
無意味ですが。
吉祥寺のユザワヤが移転で閉まっており、ちょほいと困りました。
そんな時の一杯
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